2011年01月23日

「知についての三つの対話」をさらっと読みました

当方、科学史の知識もないし、込み入った内容についていくための論理保持力もありません。年とともに根気も無くなってきているので、わからないところを何度も読むことによって何とか理解しようともせず、一回読めば分かることだけを分かればそれでよしとしてしまう傾向が顕著です。

とは言え、ファイヤアーベントの主張の底流に流れる骨子は理解できたと思います。簡単に言えば、「科学を単純に信じるわけにはいかない。多様な解釈があり得る。」ということだと思います。

ファイヤアーベントについて、互いに表裏一体ですが、当方の好みに合う部分と合わない部分があります。

当方の好みに合う部分は、「Anything goes!(何でも構わない)」という言葉から当方が直観した部分であります。すなわち、彼の科学に対する立場(哲学的思想)です。これは、当方が普段から言っている「あるがまま。どうでもいい」と相通ずるものがあり非常に共感できます。

一方、好みに合う部分と表裏一体である好みに合わない部分について述べます。彼の全面的な懐疑主義は、いわば反駁不可能と思われる一つの思想であり、それを彼の広範な科学や哲学の知識を動員して、いろいろな例を用いて説明していますが、その哲学的思想は、しばしば科学主義をこき下ろすこともあるわけで、インパクトがあり痛快でもあります。しかし当方は、彼の主張には共感しつつも学問的にはつまらない、という印象を持ちます。もっとも、構造的にそうならざるを得ないので仕方ないことではあります。

ファイヤアーベントが、この大いなる思想「Anything goes!」の裏づけをいつまでもやっているのはどうかなと思います。当方も確かに、「あるがまま、どうでもいい」を時に説明しようとはします。しかし、これはもう、ほとんど誰も反駁できない究極のお題目のようなものであると思われ、いわば荘子が「世界は全て蝶の夢かもしれない」と言うのを誰も反駁できないしそれ以上言及しても始まらないのと同じことです。すなわち、ファイヤアーベントは「Anything goes!」と、そして当方は「あるがまま、どうでもいい」と宣言して終わり、というのがよろしかろうと・・・。そして、そんなことより、何らかの具体的な仮説を検証することのほうが楽しかろうと・・・。

余談になりますが、ファイヤアーベントは、この本の中で(「知についての三つの対話」102ページ)、自分が学んだ師匠のカール・ポパーを哲学者なんかじゃなくて形式的衒学者だと批評しているくだりがあり、むしろ自分はヴィトゲンシュタイン的と言っています(もともと彼はヴィトゲンシュタインのもとで学ぼうとしていた矢先にヴィトゲンシュタインが亡くなったので、ポパーのもとで学ぶことになったという経緯もある)。さらにこう言っています。「僕の論文にはたくさんウィトゲンシュタイン的なところがあるが、もともとウィトゲンシュタイン主義者は自分たちの後継者を求めもしないし、その必要も感じていない。だから僕のことを、自分たちの仲間だなんて宣伝しないだけだよ。」と。

この部分を読んで、当方の脳裏に浮かんだことは、和尚ラジニーシのグループです。和尚ラジニーシについては、以前に言及したことがあります→コチラ。和尚ラジニーシのグループは、誰も束縛しません。教義もなければお誘いもありません。そのため当方、本との出会いからずっとコミットしつつも、14年間和尚の弟子(サニヤシンと呼ぶ)にはなりませんでした。ファイヤアーベントがウィトゲンシュタインの許で学ぼう思ったときにウィトゲンシュタインが亡くなったのと同様に、当方が1991年にインドへ行きサニヤシンになったときは、ラジニーシは既に遷化していました(このあたりが当方の機を見るに敏ならざるところです)。サニヤシンになるというと大変な決断のように思われるかもしれませんが、少なくとも当方は、いたって気楽にサニヤシンになりましした。そして、いまだに何の束縛もなく、何の交流もなく、いわばパートタイム・サニヤシンを続けていられるというわけです。

当方、大学時代にヴィトゲンシュタインよりは少し後ですがほぼ同時期にバグワン・シュリ・ラジニーシを高田馬場の芳林堂書店の本で知りました。「存在の詩」「究極の旅」「草はひとりでに生える」「あなたが死ぬまでは」(他にも多数あり)といった本でした。ちなみに、ラジニーシは、「究極の旅」の中でヴィトゲンシュタインに言及しています。

西洋の最大の哲学者のひとり
ルードウィッヒ・ウィットゲンシュタインは
禅の態度に非常に近づいた人だ
ほとんどその扉を彼は叩いた
彼は言う
「神秘なのは
世界の中でものごとがどうなっているかではない
それが存在するということだ」
世界が在るということ
それこそ本当の神秘なのだ
あなたがどうここにいるかじゃない
あなたがどうやってここに来たかでもない
あなたがここにいる目的でもない
ただあなたがここにいるという事実
それこそが最大の神秘なのだ
ただあなたがいるという
私がいるというその事実こそ、最大の神秘なのだ
そして、答が言葉にならないとき
問いもまた言葉にはならない

それはこんな話を思い出させる
ある男が仏陀のところへやって来ると言った
「どうか私の質問に、言葉を使わないで答えてください
と申しますのも、昔語りで
その答えは言葉にならないようなものだと聞いていますもので」

仏陀は笑ってこう言った
「もちろんだ
あなたは正しいことを聞いた
だが、あなたの質問を言葉を使わずにしてごらん
そうしたら、私は
その質問に言葉を使わないで答えよう」
すると、その男は
「それは不可能です」と言った
それから、彼は理解した
もし質問が形にならないものだとしたら
どうしてその答が形になる?
もし質問それ自体が表明されえないものだとしたら
どうして答を要求することなんかできる?

ウィットゲンシュタインは正しい
そして、解答が言葉にならず
質問もまた言葉にならないとき
そのなぞなぞは存在しない
問いも言葉にならなければ、答えも言葉にならない
そうしたら、どこになぞがある?
どこに問題がある?
これはすさまじい洞察だ
問題は存在しない
それは<心>によってつくり出されたものにすぎない
それは心の創作だ
いやしくも問いが組み立てられ得るものならば
それに答えることもまた可能だ

誰かがウィットゲンシュタインに尋ねた
「それならばなぜあなたは
あんなに素晴らしい本を書き続けるのですか?」
彼の著作「論理哲学論考(Tractatus Logico Philosophicus)」は先頃
人類史全体で最も偉大中の偉大な書物のひとつとして絶賛された
「もし質問が形にならず、答えも与えられないとしたら
なぜあなたは本を書き続けるのですか?
どうしてなのです?」
彼は言った
「私の叙述は
次のような形でひとつの解明としての役割を果たす
誰であれ私を理解した人は
結局のところ、それらをナンセンスなものとして認識する
その人はそれらを
それらの向こうへ登って行くステップとして用いたのだ
それを登ってしまった彼は
彼はその梯子を言わば投げ捨てなければならない」

あなたが理解した瞬間
私がしゃべっていることもまたナンセンスなものだ
もしあなたが理解しなかったら
そのときは、それは意味深長に見える
一切の意味は誤解によるものだ
もしあなたが理解したら
一切の意味は消え失せる
ただ生のみがある
意味というのは<心>のものだ
ひとつの心の投影
心の解釈にすぎない
そうしたら「バラはバラでありバラである」
こんな言葉すら存在しない
どんな名前も
どんな形容詞も、どんな定義もつかない
ただのバラ
ただ生だけがある
突如として、どんな意味もなく
どんな目的もなく
そして、それこそ
悟るべき最大の神秘にほかならない

だから、意味というのは本当の探索じゃない
本当の探索とは<生>それ自体に対面することだ
生(なま)の、裸の<生>そのものに

あらゆる問いはある意味では愚かしい
そして、あらゆる答えもそうだ
あらゆる問いはある意味で愚かしい
それは、それらがみな心によってつくられたものであり
心というのは
あなたと<本当のこと>との間の障壁にほかならないからだ
そうして、心は質問をつくり出し続ける
それは探索を遅らせる
それは、そんなにたくさんの質問をしているからには
貴方は偉大な探求者だと言ってあなたを確信させる
だが、そうやって質問ばかりしているために
あなたは自分のまわりに雲を寄せ集めているのだ
まず、あなたが質問をする
そうすると、その質問があなたを取り巻くだろう
すると今度は、あなたは何か答えを得はじめる
そうすると今度は、答があなたを取り巻くだろう
そして、あなたと生(なま)の、野生の、裸の生との間には
つねにひとつの障壁が残ることになる
在るそのもの
それは問いでもなければ答えでもない
それはひとつの啓示だ
<心>がなくなったとき
それはあなたに示される
それはただただそこにある
その一切の栄光のうちに顕現している
その全体性のうちに用をなすばかりだ

だが、人間は質問をし続ける
そして、彼の目には
この質問すると言うことが何か偉大な探索であるかのように映る
そうじゃない
あらゆる問い
あらゆる答え
あらゆるゲーム
すべてゲームだ
もしお望みならそれで遊んだっていい
だが、それらを通じては何ひとつ解決することはない
そして、人々は
彼らの人生の最後の最後まで質問をやめない


ちなみに、ヴィトゲンシュタインに言及している本として他に、「神狩り」(山田正紀)や「宗教と反抗人」(コリン・ウィルソン)などがあることを付記します。

今後、オショー(バグワン・シュリ・ラジニーシの晩年の呼び名)に言及することが多くなるかもしれません。それから、一回行ったきりでもう二十年もインドのプーナ(プネーともいう)のアシュラムにも行っていないので、パートタイム・サニヤシンではあっても、そのうち行きたいような気持ちもあります。あと、国内のサニヤシンとの交流も取り戻しつつ当方の晩年を迎えて行きたい気もします。

そうそう、国内のサニヤシンで思い出したことがあります。当方、まだサニヤシンになっていない頃、失恋して(アンタが!?失恋!?)傷心のままサニヤシンたちの溜まり場を訪れたとき、そのことを話すと、みんなが揃って「おめでとう!」と言ったので、ぶったまげた記憶があります。どういう感覚の持ち主たちなんだと・・・。でも、よくよく考えてみれば、素晴らしく前向きな言葉ですよね。他にも思い出せばいろいろ出てきそうなので、またおいおいお話し致しましょう。

   

   

   

   

   

   



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2011年01月09日

ファイヤアーベントの翻訳本に関する当方のとりあえずの感想

先日、ファイヤーアーベントの主な著書の翻訳本を、以下のようにご紹介しておきました。

   

まず、紀伊国屋書店が撤退したあとに入ったジュンク堂書店で調べてみたところ、上記四つのうち「方法への挑戦」と「知についての三つの対話」の在庫だけがありました。次に図書館で調べてみたところ、上記四つのうちの「知についての三つの対話」と「哲学、女、唄、そして・・・」の在庫だけがありました。

ジュンク堂書店で、ざっと立ち読みした「方法への挑戦」は、分厚い本である上、概念的な単語が次々と現れるため、(仮に理解できるとしても)理解するとなると相当ゆっくり読み進めなければならないと思われ、よほど頭がいいか、忍耐力があるか、情熱があるか、それらの複合であるかでなければ、読む気が失せそうな代物でありました。

図書館では、本を借りるための登録をして、「知についての三つの対話」と「哲学、女、唄、そして・・・」を借りて参りました。余談ですが、当方が本を図書館で借りるというのは、小学生以来ではないかと記憶しております。これまで本を買ってばかりいた当方が、関西の友人の良き習慣に倣って本を借りるという行動の端緒につけたのは、どちらかといえば、めでたいことではなかろうかと思っています。

さて、図書館で借りた「哲学、女、唄、そして・・・」というファイヤアーベントの自伝ですが、最初の20ページ程度を読んで嫌になりました。「何がどうした」というどうでもいい話が延々と続くのです。・・・「そういう君も、いつも、どうでもいい内容の記事をブログに書いているじゃないか」というご指摘は、喜んで受けます。

人は、「自分にまつわるどうでもいい事柄は勇んで他人に話そうとし、他人のどうでもいい事柄は聞いてる振りこそすれ聞きたがらない」というのが本音であると。

そこで、皆さんが聞きたくもないどうでもいい話をひとつ↓

そういえば当方、学生時代、サークル活動の帰りに、いつも行きつけのパブでサークルメンバーの3〜4人で酒を飲んでいたとき、場を取り持とうといろいろな話題を振りまいている友人(同級生)に、「何がどうした、誰がどうした、という話はつまらないから止めよう」と言い放ったことがありました。当方に他意はなく、本当につまらなかったからそう言ったまででしたが、そこに居た他の友人(当方の性向をよく知っている懇意の後輩)も苦々しい笑いを浮かべていたものでした。

その話を、30年も経った最近、当時から付き合いのある関西の友人(サークルの別の後輩)にしたところ、「よくそんなこと言いましたねえ」と言われ、わははと笑ったものです。

ちなみに、これら二人のサークルの後輩は、前にも申しました「たった1日で終わった論理哲学論考の読書会」に参加してくれた二人と、まさに同一人物です。

ねっ、聞きたくもなかったでしょ。

事ほど左様に、「哲学、女、唄、そして・・・」というファイヤアーベントの自伝の冗長で退屈な記述に嫌気が差した当方は、ヴィトゲンシュタインが出てくるくだりだけ拾い読みしました。ファイヤアーベントは、彼の学生時代に一度だけ、学生討論会に、たまたまウィーンに戻っていたヴィトゲンシュタインを招いていますが、ケンブリッジ大学のヴィトゲンシュタインの許で学ぶことが決まった矢先にヴィトゲンシュタインが亡くなったため、カール・ポパーの許で学ぶことになったのだそうです。

ちなみに、下賎のそしりを免れないかもしれませんが、「哲学、女、唄、そして・・・」の「女」の部分については、けっこう赤裸々に語られているようなので、週刊誌のゴシップ記事を読むように、その部分も拾い読みするつもりではあります。

追記(2011/01/15)

結局、何だかんだと言いながらも、「哲学、女、唄、そして・・・」をあちこち拾い読みしているうちに、いつのまにか全体の3分の2程度は読んでしまいました。まあ、伝記なので次から次へと話題が移っていくため、個々の話を深く追求するということはほとんどないのですが、まあまあ楽しく読むことができました。本の最初のほうが子供の頃の話なので、冗長で退屈なため、やや酷評してしまった感があるので、この追記にて少しバランスを取っておきたいと思った次第です。もちろん何を差し置いても読まなければという本ではないでしょうが、まあ興味があれば読んでみてもよろしかろうというくらいの本ではあると思います。ちなみに、この本の原題は「Killing Time」なので、「哲学、女、唄、そして・・・」なんていう俗っぽい題名にするのではなく、もう少し原題に忠実でスマートな邦題を考えられなかったのかと思ったりします(「訳者あとがき」で邦題に関する訳者のコメントがあるにしても)。


さて、「理性よ、さらば」については、ジュンク堂にも図書館にも無かったので、立ち読みすらできなかったのですが、アマゾンのカスタマーレビューを見ると次のように書いてありました。

ファイヤアーベントは大好きな哲学者の一人なのだが、訳がひどくて読むに耐えない・・・。一般的読者には理解が困難な内容がさらに困難になっている。おそらく訳者自身が理解していないせいだろう。

他人のレビューを鵜呑みにするわけではありませんが、参考にはしたいと思います。

ジュンク堂にも図書館にもあった「知についての三つの対話」が、当方にとっては何とか読むに値する本のようなので、せっかく借りてきたこともあり、読んでみたいと思います。

ヴィトゲンシュタインに関する本は嫌というほど本屋に並んでいますが、ファイヤアーベントの本は極めて少ないので、当方、ファイヤアーベントに興味は持ったものの「知についての三つの対話」を読み終えた時点で、それ以上ファイヤアーベントにコミットすることはないかもしれません。すなわち、当方、一時的にファイヤアーベントの「何でもかまわない!Anything goes!」という言葉に色めきたったにすぎなかったという結果になるかもしれませんが、そこは子供の頃のような根気もなく、若い頃のようなエネルギーもない、「知的スラム街の住人」のような当方に免じてお許しあれ。

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2011年01月05日

わくわくする出会い/ファイヤアーベント(Paul Feyerabend)

先日、当方ブログ記事「論理学、ひいては哲学に興味のある方へのお薦め本」の中で紹介した3冊のうち「入門!論理学」と「理性の限界」を読み終えました。どちらの本も大方楽しく読み進めることができました。もっとも、どちらの本も、一読しただけでは理解できない込み入った内容も一部含まれており、当方、細かい理解を端折った部分もありましたが、とりあえず全体の流れと個々の議論の概略を把握する程度には読むことができました。

その中で当方にとって最も印象的だったのが、「理性の限界」の「第二章 科学の限界」で取り上げられているファイヤアーベント(Paul Feyerabend)という人物です。当方、今回初めてこの人の名前を知りました。著者の高橋昌一郎さんは「第二章 科学の限界」で「ハイゼンベルグの不確定性原理」の概略を説明した後に、科学の「相対主義」の説明に入り、その流れで「科学に合理的な基準など一切存在しない」という「方法論的虚無主義」を標榜するファイヤアーベントに言及しています。ファイヤアーベントは、科学の選択の基準を「何でもかまわない(Anything goes!)」と主張したとのこと。

この「何でもかまわない」というフレーズを読んだ瞬間、当方の脳裏に浮かんだものは、沙織ちゃんのブログ記事「宙」の中で語られた次の文章です。

偏見とは何か、中央とはどういう意味か、区別とは何か、
BeBopとは何か、音楽とは何か、流行とは何か。

答えは、何でもいい、のだと思います。
どうでもいい、に近い何でもいい。ですね。


さらにそれに加えて、この沙織ちゃんのブログ記事「宙」に付けた当方のコメントで、当方が語っている「どうでもいい」という概念です。

このような、ともすると侃々諤々、喧々囂々の議論になりそうな問いの答えは、「どうでもいい」のひと言で解決されます。「迷妄」有らんば有れ、無からんば無かれ。そもそも迷妄とは何か。知とは何か。何もかも、わかり得ないというのが本当のところでしょう。

さらに言えば、矢野沙織ブログへの投稿文19で当方が語っている次の文章・・・

そんなとき、ノンポリで非国民で似非アナキストの当方流「あるがまま」「どうでもいい」の積極的な逃避思想を頭の片隅にでも・・・。

ちなみに、すぐ上の文章中の「アナキスト」という言葉は、矢野沙織ブログへの投稿文17にも出てきます。

そこへいくと当方、コスモポリタンというか、むしろアナーキストのためかどうかは知りませんが、戦争からはなるべく遠ざかりたいほうですし、愛国心もあまり無いように思います。

ところが、先ほど、ファイヤアーベントを検索して調べていたら、彼は、1975年に「Against Method: Outline of an Anarchistic Theory of Knowledge」(「方法への挑戦 : 科学的創造と知のアナーキズム」村上陽一郎, 渡辺博共訳、新曜社、1981)という本を出しているのです。

ここまで当方の思想と符号するかに見える形跡があると、当方の孤立した世界観は、ファイヤアーベントによって確固としたものになりうるのではないかという期待感が湧いてきます。しかも、ファイヤアーベントはオーストリア生まれということで、当方の敬愛する哲学者ヴィトゲンシュタインと同郷であることに及んで、当方、俄然、ファイヤアーベントに興味と親近感を持ちました。翻訳本も数冊出ているようなので、今後読んでみたいと思っています。

   

  
 
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2010年12月23日

論理学、ひいては哲学に興味のある方へのお薦め本

まず、お薦めする本を紹介する前に、いささか話を引っ張ります。

当方、学生時代に哲学者ヴィトゲンシュタインに多大な関心を持ったということは、既に幾つかの記事の中で触れているのでご存知の方もいらっしゃるかと存じます。ただ、当方、ヴィトゲンシュタインの人生についてはけっこう知っているものの、彼の哲学の内容についてはほとんど知らないと言っても過言ではありません。現に、前にも申しましたが、学生時代にヴィトゲンシュタインの著書「論理哲学論考」の3人の読書会(当方とサークルの後輩2人)を自ら開きながら、2日目にして主催者の当方が寝坊して一時間も遅刻するという事態になり、それっきりになってしまったという事実があります。あのときの自分に語りかけるとすれば、「読書会を朝方にやるのはやめなさい」となります(笑)。

※当方、学生時代に自分がヴィトゲンシュタインになったつもりになっていたこともありました。ヴィトゲンシュタインは一時ノルウェーの海岸の掘っ立て小屋で過ごした時期があったということで、当方、12月末の寒い時期に佐渡島を旅行し、北のはずれの岩屋口というところまで独りバスに揺られて行きました。ユースホステルに泊まったのですが、そこのご主人からは、「何ゆえこの寒い年末に独りでこんなところに来なさったんですか」と訊かれたりもしました。当時は、「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」といった気分だったかもしれません。或いは「漂泊の思いやまず」といった感じだったかもしれません。昼間は、自転車を借りて遠乗りしてさらに北端まで行き、現地のボロボロの校舎を見ては、ヴィトゲンシュタインも一時やっていた教員に夢を馳せたりもしたものです。夜は宿でヴィトゲンシュタインの著作の読書をやっていたかと思います。当時は建築デザインにも興味を持っていたので、「ヴィトゲンシュタインの建築」という本やその他建築デザイン関係の本も読んでいたような気がします。

ヴィトゲンシュタインに関する和書は、何十冊と持っていましたが、10年くらい前に「もう読まないし読めないだろう」と諦めてヤフーオークションでほとんど全て手放してしまいました。今はもう出版されてない本も幾つも持っていました。後になって、やっぱ持っていれば良かったと後悔する部分もなきにしもあらずですが、まあそれもあるがままということでよろしかろうとは存じます。

さて、ヴィトゲンシュタインが何を考えていたかを探るには、本当は原著に当たるのが一番いいのでしょうが、外国語が苦手な当方には無理です。かと言って、原著の翻訳本では真意が伝わるのかどうか覚束ないと同時に、仮に適訳だとしても内容をちゃんと理解するのは難しいと想像されます。そうなると、日本人の適当なガイドさんはおらぬか、ということになります。学生時代には一般教養で永井成男先生の授業を受けていましたが、当方の学ぶ姿勢がまだまだ成熟していませんでした。著作では、末木剛博さんや坂井秀寿さんや黒崎宏さんといった方々の本を読みましたが、これまた当方の学ぶ姿勢が未成熟でした。

ここ1〜2年のことですが、本屋で立ち読みなどしていて、当方のフィーリングに合う先生をみつけました。それは、野矢茂樹という方です。軽いギャグを交えながら、わかりやすい文体で書いておられます。一般読者への啓蒙的な著書が多いと思います。この方の本やこの方が薦める本などを、読む順序を考慮して読んでいけば、けっこういい地点に至ることができるのではないかという希望を1〜2年前から抱いています。最近本屋では、ほとんど本を買わない当方ですが、立ち読みしていて我慢しきれず買ってしまった本を紹介しておきます。野矢茂樹先生の本一冊と、傍にあって目に付いた本二冊の計三冊です。

  
 
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ジレンマ dilemma

ちょっと最近記憶力が低下したせいか思い出せないのですが、♪話すと愛が壊れそうだから♪とか何とかいう歌詞の歌謡曲があったように記憶しています。また、松本隆さんの作詞で太田裕美さんが歌った曲には、♪好きよ 愛してる そんな 言葉じゃ 今の気持ちは 語りきれない♪(「スワン」)なんて歌詞もありました。

あ、思い出した。「乙女の祈り」(黛ジュン)だった。♪それなのに 何も 何も言えない 口に出すと 恋が 壊れそうなの♪ でした。

言ってしまうと何某かが壊れてしまう、というケースがあります。例えば、当方が「あるがまま」という主張をしたとたんに、あるがままではなくなってしまう何某かがあります。そもそもあるがままの物事はまさにあるがままであり、「あるがまま」とわざわざ言わなくてもあるがままであります。すると「あるがまま」とわざわざ言うのは、余計事、蛇足と相成ります。

この解決方法らしきものを二つ思いつきました。一つは、「あるがまま」と言わなければよろしかろう、というものです。ある人が物事はあるがままであるということを主張したいとき、何も言わずに押し黙れば、あるがままの物事はそのまま保存され、言語に毒されずに済みます。これと似ていてちょっと違うように思われるのは、景色を見て「美しい」と言ったとき何かが壊れたように感じますが、「美しい」と言わなければ美しさがそのまま保存されると言えるのかというと、ちょっと疑問を感じます。「美」は主観に基づくと仮定すれば、誰一人「美しい」と言わない状況において、「美しさ」は存在するのか、という問題です。

でも「あるがまま」だってどうでしょうか。「あるがまま」は主観に基づいていないと本当に言えるのでしょうか。世の人々が誰一人として「あるがまま」と言わなくなったとして、物事はあるがままを本当に維持しているのでしょうか。「そりゃあ、起こったとおりのことがあるがままということなんだから、あるがままは維持されているだろうに」とおっしゃるかもしれません。でも例えば、人間が1人も居ない宇宙を仮定したときに、その宇宙は「あるがまま」でしょうか。「人間が1人も居なけりゃ、あるがままという言葉さえないだろうから、その質問はおかしい。」とおっしゃるかもしれません。たしかにそうかもしれません。さて「あるがまま」というのは、人間が作った概念に過ぎないのか、それとも人間が1人も居なくても存立しているのでしょうか。

さきほどの話に戻して、「美」は本当に人間の主観に基づくものでしょうか、それとも人間の存在の有無に関わらず「客観芸術」とも言うべき「美」が単独で存立しているのでしょうか。タージマハル寺院は、人間が1人も居なくても美しいのでしょうか。「タージマハル寺院は、人間が1人も居なければそもそも作れない」といった瑣末な反論が出てきそうなので別の例を挙げましょうか。地球という星でもいいし色とりどりの熱帯魚でもいいです。「美」は人間が居て初めて存立するいわば人間のシステムの一部なのか、人間が居なくても存立するのか。はたまた、「美」はそもそも人間の幻想に過ぎないのか。

再度「あるがまま」に話を戻して、こうして見てくると「あるがまま」は「美」よりも根源的であるように思えます。でも、「あるがまま」ですら人間の概念に過ぎないとも言えなくもないでしょう。この場合、言葉はどうでもいいです。「あるがまま」の代わりに「A」でも構いません。どう表現しようが構わないわけですが、その「あるがまま」なり「A」という言葉は何某かの状態を指し示しており、その何某かの状態というのが「物事が起こるがままに起こっている状態」であるならば、言葉の有る無しに関わらず、すなわち人間の居る居ないに関わらず、存立している、と言えるのかもしれません。

わけが分からなくなってきましたが、哲学とはそんなものですし、哲学上の難題というのは幾らでもあるわけなので、この程度の議論は序の口であります。序の口であっても、わからないものはわからないのです。話を全てひっくり返すことだってできます。例えば、「あるがままというのはお前の造語に近く、何を指し示しているのかさっぱりわからない」と言い掛かりを付けることも決して無茶とは言えないのです。そう言われたら、当方は「あるがまま」の定義を言わなければならず、定義するには別の言葉を必要とし、またその言葉を別の言葉で定義しなければならず、どこまで行っても「あるがまま」の説明が完結しないということになりかねません。当方ついに癇癪を起こして、「あるがままはあるがままだ、君の経験を活かして推測せよ」などと言った日には、どのように解釈されても文句は言えなくなります。哲学には、そういう問題もあるんです。

話が長くなりましたが、二つ目の解決方法は、「あるがまま」とわざわざ言うことは余計事、蛇足であると言われることも含めてあるがままである、というものです。でも、そう言った瞬間、それだって結局わざわざあるがままと言っているのだから余計事、蛇足だろう、と言われるでしょう。それに対しては、またまた、その2回目の余計事、蛇足だろうと言われることも含めてあるがままである、と言えなくもないですが、「その2回目の余計事、蛇足だろうと言われることも含めてあるがままである」という言明も余計事、蛇足だろう、と言われる羽目になり、循環してしまいます。

頭のいい人でさえ難しい問題を、頭の悪い当方がやっても、すったもんだするだけで一歩も前進したように思えないのが哲学です。それゆえ、当方は上記のように「あるがまま」を捕らえきれないまま、「哲学なんて所詮どうでもいいものなんだ。宇宙はあるがままにある、それでいいじゃないか」とうそぶきたくなる誘惑に駆られて、いつも、「あるがまま」「どうでもいい」なんていい加減なことを言っているのです。とは言え、「あるがまま」と言いつつ悪い頭で物事を探求したくなり、探求し始めると、探求なんてしても結論なんて出そうにない。それどころか、ますます厄介なことになっていく。その上、頭のいい人でも解決できない問題が山とある。やっぱり「あるがまま」を決め込んだほうがよほどいい、と行ったり来たりするわけです。そういう苦悩?があるから、それを回避するために短絡的に「あるがまま」なんて言わなければならなくなるのだ、とも言えるわけです。「短絡的」というのは半分謙遜ですけどね。

思いつくままに書いたため、もちろん極めて粗雑な議論になっていると思いますが、思考過程としてこのまま載せておきます。最後に言うのも何ですが、さらっと読み流されるのがよろしかろうと存じます。他人の思考過程を追うことほど疲れることはありませんので。それか、「ジレンマ」というタイトルを見た瞬間に「これはヤバそう」と内容を読むことを止めるかです。もっとも、ここまで来た人は、順序良く読む限り、既に内容をひととおり読んでしまった後だと思いますが。これもジレンマの一種でしょうか。ジレンマかどうか考えるとまたややこしいので、「どうでもいい」ということで。なんか「どうでもいい」と「あるがまま」は、いつも便利で楽な言葉(ひいては概念)のように思えて仕方ないんですけど。ついつい安易な道を進みたくなる当方ではあります。
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2010年06月02日

散歩の途中で考えた粗雑な思考

散歩しながら考えた粗雑な思考を記述したものです。推敲もほとんどしてないので、スマートさに欠けた冗長で散漫な文章になっていますが、冗長・散漫は美しくないと知りつつも当方のもともとの性向ですし、こういったある意味バカげたことを考えたりするのも当方の一性質であることに変わりなく、実はもう10日くらい前に書いた自己嫌悪な文章ではありますが、どうせつまらぬブログですし、一応載せておいても宜しかろうご同輩ということで、えいやっ、っと載せておきます。ですから、かなり酔狂な方のみご笑読いただき、当方のアホさ加減をご確認ください。

先日の記事「やはり数学基礎論は骨が折れそう・・・」で次のように申しました。

普通の人間にとって、ユークリッドの公理系は直観的に受け入れやすい現実に即した内容のように思いますが、後に出てきたリーマンの公理系は素直には受け入れにくく多少努力を要するように思います。しかも、公理系というのは幾らでも自由に作ろうと思えば作れるということのようですから、それらは現実世界からはどんどん乖離していきます。そんなことは気にしないのが数学だと言われれば、ああそうですかということになりますが、少なくとも当方は、それではさようならということになります。

はてさて、そう簡単に合点してしまってもいいものかどうか。

当方散歩していて、「物」と「光」と「目(視力)」について考えていました。これらのどの一つを取っても、この世に存在しなければならない理由など想像できません(もちろん、存在してはいけない理由も想像できませんが)。でも、「目(視力)」に比べ「物」や「光」のほうがより根源的な存在であるように思えます。「光」の無い洞窟には「目」の無い生物が居るそうです。「光」が無ければ「目」も要らない、ということでしょうか。では、「光」が有れば「目」は要るんでしょうか。「目」というのは、どのくらい根源的な存在なのでしょうか。「光」の有るところに「目」は無くてはならないものなのでしょうか。「光」が存在して「目」が存在しない世界というのは、あってもいいのでしょうか、それともあり得ないのでしょうか。

もっとも、「目」の存在価値を論ずる前に「物」や「光」の存在価値すらわからないのですから、「目」の存在価値だけを論じても片手落ちな気はします。でも、仮に「物」や「光」はそもそも有るものと仮定したとして、「目」は無くてもいいような気もします。生物に目は絶対に必要でしょうか(そもそも生物の存在自体、絶対に必要なのでしょうか)。「目」は、あれば便利ですが無くてもいいでしょう。そもそも「目」なんてものが無ければ、端から不便だとも思わないでしょう。でも、ずっと前から「目」は存在しなければいけないかのように大手を振って存在しています。進化の結果「目」が発生したとしても、そもそも何ゆえに「目」なんてものが発生したのでしょうか。また、どのように発生したのでしょうか。「目」が発生している惑星は単なる気まぐれみたいなもので、「目」が無いのが普通の惑星もあるのでしょうか。

生物が存在しても「目」が無いのが普通、の惑星があっても不思議ではないのかどうか。「目」が無い文化というのは想像できなくもないが、そもそも「目」が無いという状況を想定してもいいのかどうか。「目」が有ることは、特殊か必然か。我々は現に「目」が有るから必然のように思うだけで、「目」があるのはたまたまに過ぎないのかもしれない。そこでアナロジーとして言えば、ユークリッドの公理系は、いわば「目」が有るのが当たり前とする世界に相当し、リーマンの公理系は、いわば「目」が無い世界もあってもいいじゃないかとすることに相当する、と考えてもいいかも。その他の(非ユークリッドの)公理系は「耳」が無い世界、「鼻」が無い世界などに相当すると。

さて、ここまで述べてきたような質問に誰も明確に答えられないとすれば、そもそも質問自体に問題があるのかもしれない(いや、その可能性が大だ)。まあ、少なくとも地球上の多くの生命体には「目」が存在し、よって「見る」という機能が存在する。でも、もしかすると他の惑星に、あらゆる生命体の「目」が存在せず、よって「見る」という概念が存在しない場所があるやもしれない。そこは「光」も「物」も「生命体」も存在するが「見る」ことはできない。そういうことはあり得るのかあり得ないのか。存在の形式として「目」は、すなわち「見る」という機能は決定的なものなのか、たまたまのものなのか。「目」引いては「脳」とは何か。生物とは何か。無機物から有機物が生まれたのか。もしそうだとしたらどのように生まれたのか。その進化の先に人間が存在するのか。一体この世は、どのように作られているのか。

もし誰もわからないのならば、すべては「あるがまま」と言うよりないし、わざわざそう言わなくても、もとより「あるがまま」ということになる。しかし「あるがまま」にしては、やたらに酔狂な世界のようにも見える。わざわざ「光」なんてものがあり、「目」で「物」が見えたりするのだから。それとも、酔狂なように見えて実は故あってのことなのかもしれないが、当方知る由もない。貴方もたぶん知らない。犬や猫もたぶん知らない。草木や石もたぶん知らない。よって、生物(鉱物も含め)はとどのつまり、考えようが考えまいが何も知らぬまま生きて死ぬよりない。ついついこんなふうに考えてしまう人間という生命体がここに少なくとも一人いる。それを見かねたなら神様、教えてよ、世界はどういう構造になっているのか。それを教えてくれたら、当方を石にしても構わないから。「君を石にしたくないから教えない」って? 別に教えたからって当方を石にしなきゃならないってわけじゃないのよ。・・・そんな下手な言い訳をして、神様も本当は知らないんじゃないの? 「知らなくていい、ただ生きるんだ」って、ヴィトゲンシュタインみたいなこと言わないでよ、神様。

註:ヴィトゲンシュタインの友人が、自宅でお客をもてなした際、お客に「コーヒーがいいか紅茶がいいか」と尋ねたとき、傍らに居たヴィトゲンシュタインは、「訊かなくていい、ただ差し上げるんだ」と言ったそうな。以前、当方の友人が当家を訪ねた際、朝のティータイムにその逸話を話したところ、「少なくとも砂糖の量やクリームを入れるかどうかは訊いてほしいな」と言っていた。もしヴィトゲンシュタインだったら砂糖もクリームも入れてもらえなかったかもしれないよ。その上、当人は「これこそが唯一の正しいやり方なんだ」とかいって悦に入(い)っていたかもしれないよ。良かったね、当方で。

訂正:「訊かなくていい、ただ差し上げるんだ」と言ったのは、ヴィトゲンシュタインではなかったことを思い出した。ヴィトゲンシュタインが友人宅を訪れた際、その友人の奥さんがヴィトゲンシュタインに「コーヒーがいいか紅茶がいいか」と尋ねたとき、友人が「訊かなくていい、ただ差し上げるんだ」と言い、その言葉にヴィトゲンシュタインが痛く感動したという逸話でした。(2017/04/23記)

「この友人」と「コーヒー」で思い出したこと二つ有り。一つ目。この友人は、関西人らしく小噺が好きなのだが、あるときこんな小噺を聞かせてくれました。「オイラさあ、コーヒーを飲むといつも目が痛くなるんだよなあ」「え、そうなの?」「うん、いつもこのスプーンが右の目に当たってさあ・・・」。この小噺を痛く気に入った当方は、あるとき今は亡き母親がテーブルに座っている当方にコーヒーを入れてくれたとき、当方「コーヒー飲むといつも目が痛くなるんだよなあ」と言い、「何で?」との問いに「このスプーンが右目に当たってね」と言ったら、そういう類のものにはあまり笑わない母親が珍しくウケていました。小噺を実践してみるってのも乙なものでしょ。

二つ目。この友人と当方が喫茶店に入り、二人ともコーヒーを注文したのですが、彼の様子を見ていると砂糖を入れたあと一度スプーンでかき回して、然る後にクリームを入れて、も一度かき回したので、「どうして?」と訊くと、友人は「最初からクリームを入れてしまうと温度が下がって砂糖が溶けにくくなるから」と答えました。当方「そのやり方、どこで知った?」と訊くと、「わからない」と言ったので、「それ、もしかして僕から聞いたんじゃない?」と言うと、「えー、わからない」と言ったので、「そのやり方、30年も前に浜口君から聞いてそれ以来ずっと僕が実行していることなんだけど、門外不出の秘伝だから普通は知らないはずなので、僕から聞いたんだと思うけどなあ」と言うと、「わからんけど、そうかもしれん」と言っていました。

ちなみに浜口君というのは大学時代の仲の良かった友人ですが、彼からこのやり方を聞いたときは、その科学的な手法に当方スゴイ感動して感心もしましたが、その彼に当時人気が出始めていた春風亭小朝の話をしたとき、当方が「コアサがさあ・・・」と言ったところ、彼があざ笑いながら「コアサ? コチョウでしょうが」と言ったので、その時は当方「ああコチョウって読むんだ」と思いましたが、皆様ご承知のごとくコアサが正しいことを後日知った当方は、「ひでー思い込み野郎だなあ」とうそぶいたものでした。そういやあ、高校時代の別の友人は、「名状しがたい」を「ナフシ(名伏し?)ガタイ」と言っていたなあ。将棋は強かったけど。みんなアホやなあ。みんなアホで良かった良かった!
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2010年05月09日

やはり数学基礎論は骨が折れそう・・・

前の記事で、記事の話の流れ(すなわち当方若かりし頃からの学問的嗜好)からは比較的自然ではありますが、当方ブログ全体から見ればやや唐突に、次のように申し上げました。

・・・放送大学にも数学基礎論の講座があることを先日教えてくれました。その内容を読んでみると数学的予備知識を必要としないと書かれているので、もしや当方にも理解できるのではとの期待が高まっています。ただ、「ゲーデルの不完全性定理」までやることになっているので、そんな名前しか聞いた事のないような大そうな理論まで理解できるのかどうか訝しく思ってもいます。ともあれ次の下半期に受講しようかと思っていますが、はてさて、どうなりますことやら。

その後、数学基礎論にまつわる入門的な書籍などを概観してみましたが、どうも一筋縄ではいかないような世界のように思われて参りました。

放送大学の数学基礎論の当該テキストも見てみましたが、HPでは、「数学的予備知識を必要としない」と書かれているのにテキストの前書きには、「『数学的予備知識を必要としない』とはいえ、高校程度の数学的素養と多少の忍耐力を要する」というようなことが書いてありました。本の内容も少し見た限りですがピンと来ない感じでした。

他の入門的な本を読んでみても、最初のほうは理解できても、進むにつれてだんだんわけがわからなくなってきました。数学基礎論を理解しようとすれば、「記号論理学」や「集合」や「公理体系に関する数学史」などの素養(一般的な知識)が必要だと思われます。それらにある程度慣れ親しんでいないと話にスムーズについていけないし、何をやっているんだかわけがわからなくなりそうです。

当方がアホなだけかもしれませんが、普通の人間がこんなもの(数学基礎論)に首を突っ込んだならば、すぐに引き返さないと迷宮に迷い込んでしまいます。能天気な普通の人間にとって何一つ問題のない明るい高原からわざわざ暗い原生林に立ち入るようなものです。どうやら、専門家ですら簡単に幾つもの誤解が生じるほどの思考しづらい分野のようです。そんな所へ磁石も持たない素人が入り込んだ日には、立ち往生してしまうのは目に見えています。

原理への憧憬はありますが、仮にゲーデルの不完全性定理を理解したとしても、何か数学の公理体系に関する事柄に関して不完全なものがあることが証明されたということを理解したに過ぎません。それが数学の公理体系に関する歴史上とても大きな出来事だとしても、少なくとも当方の実人生からはかなり遠いところに位置するものです。

ゲーデルだって、不完全性定理に基づいて人生を過ごしていたわけではないでしょう。ゲーデルにしたって、彼の日常生活と不完全性定理は内容的に連動するものではなかったはずです。ましてや、不完全性定理は当方の日常生活には、その内容において全くと言っていいほど無関係のものでしょう。

普通の人間にとって、ユークリッドの公理系は直観的に受け入れやすい現実に即した内容のように思いますが、後に出てきたリーマンの公理系は素直には受け入れにくく多少努力を要するように思います。しかも、公理系というのは幾らでも自由に作ろうと思えば作れるということのようですから、それらは現実世界からはどんどん乖離していきます。そんなことは気にしないのが数学だと言われれば、ああそうですかということになりますが、少なくとも当方は、それではさようならということになります。

若い頃、当方は、何度か統一教会から勧誘を受けたことがあります。最後に勧誘されたのは、当方30歳くらいの時でしたが、名古屋の栄の雰囲気のいいサロン風の場所でビデオによる講義を幾つか見ましたが、アダムとイブのあたりまで遡って何やら原理的な幾つかのことを学習させられましたが、当方はそれらが原理だとは思えず、何故それが原理だと言えるのかと当方の担当の人に質問し、それ以上答えてくれる様子も無かったのでだんだん疎遠になり、熱心な学習者であるにもかかわらず統一教会に入らずにすみました(^^)。

すなわち当方原理的なものへの憧憬は常にあるのですが、考えてみればそもそも究極的な原理なんてものは一体どんなものか想像もつきません。仮に何がしかの事柄を原理と称して当方に示されたとしても、それを当方が原理と認めず、それが何故原理と言えるのかと問えば、さらに遡る必要があり、その繰り返しの先にあるものが何かは、想像すらつきません。そう考えると、原理なんてものはそもそもあるのか、という疑問に行き着きます。もっとも「てこの原理」というように卑近な事象に限定された場合は、大方科学的な事実に帰着するものについてはそれとして認めますが、統一教会のように「世界の原理」「人生の原理」ということになりますとすぐに科学的事実とは認められず、さらなる疑問が湧いてきます。統一教会が、「世界の原理」や「人生の原理」を完全なまでに科学的に示すことが出来れば、当方統一教会に入信することもやぶさかではないかもしれません。まあ、そんなことは無理だと思いますが、絶対に無いとは言い切れませんので一応付記したまでです。

こんな四方山話をしながら当方何が言いたかったかと言えば、「人生(世界)は大方見たままのものだ」ということです。数学の公理体系から世界が出来ているわけでもなく、哲学の思考体系から世界が出来ているわけでもなく、ましてや統一教会の原理から世界が出来ているわけでもありません。

例えば、哲学という観点から、ある哲学の徒が机を見ながら「私には机と呼ばれるものが確かに見えているが、ここにものがあるかどうかは何とも言えない」と言うとすれば、それはあらゆるものに疑いを持つ哲学の徒らしい言明でありますし、哲学的な思考の第一歩になるとは思いますが、大方の場合は、机と呼ぼうが何と呼ぼうが何らかのものがあることは確かであり、直観的な感覚与件を信じて生きていて問題となることはまずありません。また、荘子のように、「我々が現実と呼んでいるものは全て夢かもしれない」と言うとしても、それを反駁することはできないと思われますが、それがもし夢だとしても我々は夢を生きるしかないので、これまた特に問題ないわけです。すなわち、ひと言で言えば、もうおわかりですね、「世界はあるがまま」、これに尽きます。

どんなに私がアホで、数学基礎論の入門レベルで踵を返したとしても、私に理解できなかった(あるいは理解することを放棄した)だけのことで他の誰かは理解してたりしており、誰が理解しようがしまいが、それで何も問題ないのです。あなたはこういうかもしれません、「あなたは、自ら数学基礎論に興味があると言っておきながら、理解できそうにないと知ると、あーだこーだと言い訳をしているだけだ」と。それはそのとおりですが、もしあえて反論するとすれば、「はてさて、どうなりますことやら」と申し上げておきましたから、やめたとしても嘘をついたことにはなりません。それどころか、もし仮に「絶対に数学基礎論をやる」と言っていたとしても、後で前言を翻すことは、顰蹙を買うかもしれませんが凶悪犯罪を犯したわけでもなく、それもまた「あるがまま」ということになったでしょう。

あなたが、「それら全部ひっくるめて、つまるところ言い訳だな」と言えば、私は、「そう言われることも含めて、あるがままだな」と言うでしょう。

ゲーデルの不完全性定理が正しいならば、それはまさに正しいのだからそれでいいわけで、当方から見れば辺境の地にある数学の一定理に当方が抵触する行動など取れるはずもなく、迷惑を掛けることもないので、当方が不完全性定理の何たるかを知らなくても何の問題もないわけです。また、仮に当方が不完全性定理を理解したとしても、それだけのことと言えばそれだけのことであり、少なくとも当方にとっては、それ以上の有意義な展開はたぶん望めないと思います。

そこへいくと、エドワード・ソープの「ビート・ザ・ディーラー」なんて本の理論は、同様に正しい理論であることには変わりがありませんが、少なくとも当方にとっては、その理論を実践的に検証してみるという楽しみがあり、実際ラスベガスで検証しました。「正しいのなら検証する必要はないだろう」と言われるかもしれませんので、「実践的に」という言葉を付け加えたとは言え、検証という言葉は適当でないかもしれませんね。それなら、理論を実践する楽しみがある、と言い換えます。その実践においては、幾つかの実戦的な困難もありますが、それをクリアすれば必勝であり、それはお金が儲かるということでもあります。

「そうか、お前は、ゲーデルの不完全性定理を理解してもお金にならないが、ソープのビート・ザ・ディーラーを理解すればお金になるから、前者を理解することは簡単に断念して後者は勇んで学習するというわけだな」と言われたらどう答えようかと今思案しながら書いています。

まあ別に「そのとおり」と言ったところで、何の問題もないのですが、そう言い切ってしまうのも何なので、言い訳がましい理由付けをするとすれば、ゲーデルの不完全性定理がもう少し簡単に理解できるなら、お金が儲からなくてもやはり理解したいし、ビート・ザ・ディーラーがもっともっと難しい理論であれば、お金が儲かるとしても理解できないか理解しようとしないであろう、ということです。

「じゃあ、もしビート・ザ・ディーラーが、それほど難しくない理論でお金は儲からない理論だったならば、あなたはビート・ザ・ディーラーを学習しましたか?」と尋ねられれば、難しくない理論なので学習した可能性もあるが、やはりお金が儲からないのならば学習しなかった可能性も十分にあり得る、と答えざるを得ません。簡単に言えば、大方の人間には知的欲求と金銭的欲求の両者が共存しており、そのバランスの上に学習対象を取捨選択している、ということではないでしょうか。
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2010年05月05日

すっげー美人から学問的興味まで

昨日、車で国道を走ってたらさあ、隣の車線を走っている車にすっげー美人が乗っててさあ・・・

と下品な口調で始めてみるのも乙なものかな。横顔しか見れなかったんですがね、梶芽衣子みたい、確か豊橋ナンバーで1577のトヨタ車だったかと。ポーカー始めて以来、車のナンバーを確認するのが習慣になってしまいましたよ。最近よく見るナンバーは、9999ですね。333なんてのに出会った時は、「おー、『バックナンバー333』(当方子供の頃に見た大瀬康一さん主演のテレビドラマ)!」と頭の中でつぶやいて感激しています。くだんの女性は、タバコも吸っていて何ともカッコイイ方でした。

「タバコ吸っていてカッコイイ」で思い出すのは、当方大学時代に同じクラスに澤入さんという女の子が居たのですが、大学生の女の子なんてのは大方2〜3人で行動するのが常なのですが、彼女はいつも独り、他の女の子たちを嘲笑うかのようにスリムのジーンズにブーツという出で立ちで颯爽と大股で歩いていました。吸っているタバコはミスタースリム・メンソール、別の学部の男連からも噂されるほどのポーイッシュでカッコイイ女の子でした。クラスには、もう一人石坂さんという美形な才媛が居て、ある時たまたま行く方向が同じだったもので当方一緒にキャンパスを歩いていると、当方のサークルの一年先輩の相澤さん(男)に見つかって、後で「可愛い女の子と歩いてたじゃん」とニヤニヤしながら冷やかされたことがありました。

当方、学生時代は、ご多分に漏れず目的意識もなく、浮草のごとく大学に入ったため、楽しいだけのサークル活動にほとんどの時間を費やす羽目になりました。専修科目の授業にはほとんど顔を出さず、どうにかこうにか「可」でしのいで、英語やドイツ語に至っては、ほうほうの体で逃げ切ったという感じでした。一方、一般科目の哲学系の科目には無類の適性を発揮して「優」を揃えていました。哲学、論理学、倫理学、宗教学、心理学などです。こういう大上段から構えたような、しかつめらしい学問が好きなんですねー。

当方高校時代に、山本佳人(やまもとかじん)さんの「宇宙意識の哲学的研究」という本を読んだのも、当方の精神的傾向の為せる業だったのかもしれません。この本、市販されてもいますが、当時東京芸大の学生だった著者ご本人から送っていただいたサイン本でした。この本は、神秘主義哲学ではありますが、一方で数式を用いた理論的な面も持ち合わせていました。例えば、「いま空に輝く星は、数万年前に既に無くなっている可能性がある、ということはなく、今まさに輝いているのだ」という主張を、物理学の計算式で証明しようとしていました。当方には難しくて、さっぱりわかりませんでしたが、何でも、距離も一つのエネルギーとして捕らえているようで、「光が空間から加速される」ということのようでした。普通の物理学からは、どう見ても異端ですよね。何せ、見る人と星の距離によって光のスピードが変わるというのですから。たしか概ねそういうことだったと記憶していますが、間違ってたらごめんなさい、山本さん。(そーなんです、川崎さん、A地点からB地点まで・・・古すぎて知らない? 後に漫才のザ・ぼんちが物まねギャグとして使っていましたよね^^)

当方、高校生の時は、比較的神秘的なことが好きで、橋本健さんの「四次元の世界」なんて本を読んだり、その流れでアルファ・コイルという脳にパルスを流す機械などを買ったりしていました。「地球空洞説」なんて本も読んでいたなあ。もっとも、後に大学を出て社会人になってからも、通信教育のZ会の数学だけ取って、苦手な高校数学の問題を何時間も掛けて解いて成績ランキングの上位に何度か入りましたが、そのとき当方が使っていた名前が「宗教人」でしたから、高校以降も神秘的傾向が続いていたようです。そういえば30歳くらいのときだったか一時、日本バラ十字会というのにも入っていたなあ。すぐ辞めちゃったけど。

まあしかし、大学に入り一般教養で取った「哲学」が永井成男先生(ちょっと前に調べてみたら、5〜6年前に85歳くらいで亡くなられていました、ご冥福をお祈りいたします)の「分析哲学」だったこともあり、また高田馬場の芳林堂書店でたまたま購入した本がノーマン・マルコムの「ウィトゲンシュタイン、天才哲学者の思い出」という本だったこともあり、この種の哲学への憧憬が強くなっていきました。当方、それ以前には、サルトルやキルケゴールなどの実存主義哲学にも興味がありましたが、ある時、たしか哲学雑誌で、分析哲学の坂井秀寿さんだったと思いますが、ある文脈で「実存主義の哲学なんて無いほうがいい」とおっしゃっていたのを期に、当方も「たしかにそうだ」と思い、当時の哲学の2大潮流だった実存主義と分析哲学ですが、実存主義から興味を無くし、分析哲学へと傾いていきました(他にも現象学や構造主義なんてのも流行っていましたが)。

もっとも、永井成男先生は、別の学部の先生(もっと言えば、他の大学の教授)だったので、当方ある時その学部への転部も考えたことがありましたが、楽しいながらもつまらないサークル活動に忙殺されて、いたずらに時が流れてしまいました。当方学部では、哲学も論理学も(この2つは永井成男先生の担当科目)一般教養だったので、ほんの触り程度しか学ぶことができませんでした。あるとき、当方、サークルの2年後輩の骨のありそうな2名に声を掛け、早朝の時間にウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の読書会をやることにしましたが、2回目の読書会に当方自らが寝坊して大幅に遅刻し、それっきりになってしまいました。当方自身が骨が無かったとはー、オーマイ・マカロニ!

当方、新しいもの好きなのか、いろいろ広く興味を持つものがある割には、一つとしてモノにならない中途半端な人間のようです。その後も性懲りもなく、当方のサークルの友人で、途中から受験しなおして東大に行った友人から紹介されて東大教養部の杖下隆英先生の授業を無断で忍び込んで受けたり、朝日カルチャーセンターで数学基礎論のクラスを受講しましたが、すべて三日坊主、特に朝日カルチャーセンターの数学基礎論のほうは、他の生徒たちの一部はウンウン頷いて聴いているのに、当方さっぱりわからずすぐに挫折しました。どれも、もう30年くらい前の話ですがね。もちろん今も、何もわかっちゃいません。

そもそも、当方数学は苦手でした。当方、中学・高校は、地元で一番の男子校に行っていましたが、中学受験は35番(母親から訊いてくるように言われ担任の藤(ふじ)先生から特別に内緒で教えてもらった)で受かり、中学1年生の時は500人以上居る学年で16番と田舎の神童ぶりを発揮していました。もちろん数学の成績も良かったです。ところが、対自存在(自意識)も芽生える中学2年生で、突然クラスで40番台(学年でじゃなくてクラスでですよ!)の成績となり、その後も少しは回復するも鳴かず飛ばずの低迷が続き、ついぞ完全復帰に至ることはありませんでした。当方の我が世の春は、中学1年までということになりました。荒井由実の歌に♪小さい頃は 神様が居て・・・♪というのがあるかと思いますが、自意識が芽生え神様が居なくなったとたんに成績が急落したのかもしれません。

「十で神童、十五で・・・、二十歳すぎればただの人」なんて言葉がありますが、そういえば、大学のサークルの連絡ノートに、同学年の伊藤さん(県立岐阜高校の才媛)という文学部の文学少女が、上記の言葉を書いていました。どんな文脈だったかは忘れましたが、これこそ自意識過剰な文学少女が書きそうな言葉です。彼女はドストエフスキーに心酔しており、文字通りロシア文学専攻だったのですが、純文学を純粋に学んでいると思いきや、いつぞや民青(日本共産党の下部組織の民主青年同盟)の活動員に成り下がって?いました。まあ、共産圏のロシアとのつながりはあるにはありますが。当時、実存主義哲学者サルトルやその妻ボーボワールとの絡みでフランス文学にも少し興味がありアテネフランセなどにも足を運んでいた当方にとっては、文学少女が民青に成り果てていたことは、かなりのショックであったことを覚えています。

その伊藤さんから、高円寺南の清美荘という名の当方下宿に電話がかかってきて大家さんに取り次いでもらったのですが、けっこう可愛い子だったので一瞬喜んだのですが、やはり案の定、民青の行事への参加のお誘いでした。ノンポリの当方、全く興味がなかったし、デートのお誘いでもなかった腹いせにすぐに断わりました。電話が終わって当方が部屋に戻るとすぐにまた、「電話ですよ」との大家さんの取次ぎで電話に出てみると、またその彼女で、話を聞いていると先ほどと同じ内容をしゃべっているので、当方やれやれと思いながらひとしきり聞いた後、さっきも聞いたんだけど、と言うと、「あっ」とやっと気づいたようでした。大家さんの玄関の受話器まで2回も足を運ばされて、デートのお誘いではなくつまらぬ民青の行事の同じお誘いを2度も受けて、当方の存在感や全く無く、大家さんからはたぶん珍しく当方の彼女から電話があったと思われたかもしれず、踏んだり蹴ったりの出来事でした。

話を元に戻して、我が世の春から急転直下の勢いで落ちこぼれとなった当方の中学・高校時代、特に高校2年生のときは見るも無残でした。高校1年のときに少し頑張ったせいか、高校2年でA群(当方高校は、高校2年と3年に限り、それぞれ、成績の良いA群と悪いB群に分かれる)に入ったばっかりに、鶏口とならずに牛後となってしまい、クラスの最下位付近を低迷し、自ら余裕派と称し授業中にナポレオンというトランプゲームに興じている何人かの比較的優秀な生徒たちの傍らで小さくなっていました。当方、何年も経ってからナポレオンの面白さを理解しましたが、当時は全く興味も無く、教室の傍らで疎外されていました。当時、現代国語で「疎外」という言葉が出てきて少し流行っていて、ナポレオンに興じている生徒の一人から、「この子疎外されてる」と言われて傷ついたことを今でもよく覚えています。

そんな環境もあってか高校の特に数学には付いていけず、ついに数学の塾に通わされることとなりました。ところが、その数学の塾は、以前当方の通う高校で教えていたが、辞めて予備校の河合塾で物理を教える傍ら数学の塾もやっているという先生の塾で、レベルが高い塾でした。嘘か本当か、その先生、当方の通う高校で、できない生徒に「死ね」と言ったら、その生徒が本当に死んでしまって責任を取って辞めて河合塾の先生になったという曰く付きの先生でした。それゆえかどうか、その先生、すごく優しく教えてくれるのですが、何しろ塾のクラスのレベルが高いので、当方いつも居残ってやることとなり、それでもできないので、ほとんど先生が解答して終わり、みたいな・・・、学校で落ちこぼれ、塾でもまた落ちこぼれるという何とも悲惨な毎日を過ごしていました。ひと言、日本の教育について言わせていただければ、まだ学ぶ姿勢が出来てない者に学ばせようというのが土台無理なわけで。

まあ、学ぶ姿勢や環境が整っていないことも大きいですが、当方、数学的なセンスや演算能力は大変低いと思っています。ただ、長じて後、何故か数学の一部の分野は好きであり、今でもできることならば学びたいと思っています。好きな分野の一つに確率・統計もありますが、今一番興味があるのは、かつて朝日カルチャーセンターで挫折した数学基礎論の分野です。このあたりは、論理学や哲学との接点もあり、一番コミットしてみたい分野です。

実は、当方の大学時代の友人の一人が、いま放送大学の基礎数学の講座を受けている最中です。彼は、確率が最も好きで、確率の問題はかなりスラスラ解けるようですが、高校数学全般を学びなおしたいということで受講しています。そんな彼は、当方の学問的興味の傾向もある程度知っており(上記学生時代に「論理哲学論考」の読書会に当方から誘われて待ちぼうけを食らわされた一人)、放送大学にも数学基礎論の講座があることを先日教えてくれました。その内容を読んでみると数学的予備知識を必要としないと書かれているので、もしや当方にも理解できるのではとの期待が高まっています。ただ、「ゲーデルの不完全性定理」までやることになっているので、そんな名前しか聞いた事のないような大そうな理論まで理解できるのかどうか訝しく思ってもいます。ともあれ次の下半期に受講しようかと思っていますが、はてさて、どうなりますことやら。

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