宇宙の始まりだの生命の起源だのは、もう荒唐無稽というくらい、どうやっても分かりそうにない話である。少なくとも、今研究している世代では解決を見ないだろう。と言うより、永遠に分からないだろう。いろいろな新説・仮説の類があるようだが、有力な仮説が一つ増えたからって、科学が進歩したとは必ずしも言えない。なぜなら、仮説である限り、もしかしたら、とんだ方向違いの間違いかもしれないからだ。その場合、間違った仮説としての実(まこと)しやかな知見が一つ増えただけである。そんなことで悦に入ったところで、真実が分からない限り、煎じ詰めれば何の意味もないどころか、進歩ならぬ後退している可能性だってあるのだ。まあ、研究の途中で、派生的に何か確からしい別の事柄が偶然のように判明するということはあるかもしれないが、それは子供が目的地へ行く途中で偶然100円を拾ったような嬉しい誤算に過ぎない(嬉しくても交番に届け出なければいけない)。
次に、上記の鹿爪らしい、如何にも立派な学問のように見える学問とは違い、卑近ではあるが人の役に立つように見える学問は、上記の鹿爪らしい学問ほどには、ワクワクしない学問である。「言われてみれば誰でも納得する結論」を導き出すことは、「どうやっても分かりそうもない結論」に迫ろうとすることよりも、数段ワクワク度が劣る。ワクワク度は劣るが、衆生の大方の納得が得られる結論に至る可能性は圧倒的に高い。じゃあ、役に立つ学問のほうが立派な学問か、と問われれば、そうとも言えない。まあ、「立派」という極めていい加減な言葉の定義もすることなくテキトウに遣っているので、この論拠の脆弱さは一瞬にして見抜かれてしまっているだろう。それに限らず、そもそも文章とは、常に「いい加減な」ものである。煎じ詰めれば、読む必要もない。よって、書く必要すらない。でも、ここまで書いてしまった当方や、読んでしまった貴方には実も蓋もない話になってしまうので、この際、最後まで付き合っていただこう。毒を食らわば皿までだ。
ちょっと、めんどくさくなってきたので、論を端折り(はしょり)、話が少し飛躍してしまうが、何が言いたいのかを早速教えてあげよう。要するに、「あらゆる学問は、(当然のことながら)人間が作り出したものである」と言いたいのである。人間は、複雑に展開してはいるものの、生命の一部分に過ぎず、他の生命体も含めた存在の地平においては、取り立てて特別視するほどのものでもない。人間以外の動物や植物は学問しないものと思われる。学問しないからと言ってもちろん蔑(さげす)まれるわけではない。昨日もゴキブリを捕まえて外へ逃がしてやったがな。学問は、取るに足らないものであり、人間以外の動物や植物が、飛んだり跳ねたり、じっとしていたりするのと同じように、人間は学問するだけのことである。だから、もちろん、学者も居れば、(寅さん風に言えば)労働者諸君も居れば、家庭の主婦(夫)も居れば、飲んだくれのデカダンスも居るというわけだ。
どうして、このような、風変わりな論調とは言え、当たり前の話ばかりしているのかと言えば、それは当方の都合によるからだ。すなわち、「命短し恋せよ乙女」という言葉は、ハタチそこそこのうら若き女性に諭(さと)される言葉であるが、「命短し学問せよ旦那」は、もう時既に遅く、せいぜい60の手習いという程度にしかできないからだ。もちろん、ハタチで始めても「少年老い易く学成り難し」であることに違いないが、若い女性が勢いで結婚できるように、ハタチそこそこの学徒なら、燃える志を胸に学問に邁進できよう。後に、大して成果の上がらなかった過ぎ去った時を嘆く晩年が来ようとも、そこそこの満足感は得られよう。それに比べて、当方は、残された時間もエネルギーも能力も極めて少ない。
そこで、楽観的悲観論者の当方は、学問を「行き過ぎた悲観論」一色で飾り立てることにより、学問はそもそも必ずしもやる必要のない、どっちでもいい取るに足らないものと言わばクソミソにこき下ろし、それでもなおやりたいなら、極々狭い範囲に限定することにより、その範囲だけは当方がせめてやってあげてもいいギリギリセーフ(本当のことを言えばアウトだが)のやるに値するかもしれない(本当のことを言えばやるに値しないが)学問と見做し、そこだけを耕すことにより自分なりに何とか満足できるものにしようという、楽観的現実的な策略なのである。これが、いままで当方が学問をクソミソに言いつつ、そのくせ特定の極々限定された学問に異常にこだわってきた真の理由である。人間、気になるものほど悪く言うこともあるでしょ(「嫌よ嫌よも好きの内」ってね)。「カミングアウトしてしもうたがな。」「そんなこと、前から知ってましたがな!」
「そんな口上述べてるそばから、時間は無くなっていくぞ。まずは、「情報の世界」の単位認定試験の勉強でも早くやれー。もう10日しかないんだから。」「アイアイサー。これじゃあ、やりたいこともできやしねー(少し本音も含みつつ、本末転倒みたいな捨て台詞)←こんな本末転倒みたいなことが最近やたら多いような気がする。「どうでもいい」が板についてきたってことか。それなら良い傾向。お題目の一つ「どうでもいい」とさえ言わなくなった時が「どうでもいい」を真に体現したときである。死ぬときがその時かもしれないが・・・(酒場カフェ・ド・アメリケンのリック(ハンフリー・ボガート)が「死ねば何も無くなる」と言ったように、死ねば「どうでもいい」とさえ言えないから)。」
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