![]() 【送料無料】人類が生まれるた... |
最近本をあまり読まなくなった当方ですが、まだまだ本屋に行く回数は多く、大方立ち読みするだけではありますが、時に購入してしまうこともあります。昔、寺山修司さんの「書を捨てよ町へ出よう」という本がありましたが、当方死ぬまでに書を捨て町へ出られるかどうか心もとないところです。「書を捨てよ。あの世へ直行」ということになりかねません。
寺山修司さんといえば天井桟敷ですが、当方が大学生だったころはアングラ演劇が流行っていて、もし当方がその手のサークルから勧誘されていたら、しょうもないサークルに入らずに済んでいたかもしれません。もっともアングラ演劇部にでも入っていたら、いまなお続いている大学時代からの友人や当方の妹の旦那に巡りあうこともなかったのですが、それはそれで別の人生があったでしょう。しかしながら、当方の妹の人生にも大きく影響しているとは恐ろしいことではあります。このあたりのことは、「人類が生まれるための12の偶然」の主題と重なるところです。蛇足ながら当時は、唐十郎の赤テントこそ行きませんでしたが、佐藤信の黒色テントには何度も足を運んだものです。意味はいまだに分かりませんが、「何もかも真っ黄色だぁ!」の台詞が今も脳裏に残っています。
さて、この本を読むことは、「あるがまま、どうでもいい(何でも構わない、如何様にもあり得た)、よろしかろう」を標榜して止まない当方にとっては厳密には蛇足となります。そのことは買う前からはっきり分かっていましたが、それでも買ってしまいました。この本は、岩波ジュニア新書の一冊ですから、基本的には小学生が読む本なのかもしれません。宇宙開闢から現在までの宇宙で起きたと思われる大きな出来事を概観している本なので、純粋な小学生などは、その出来事を「へえー、そんなことがあったんだー」と興味深い知識として学ぶのでしょう。しかし、ここに書かれている宇宙物理学や地球物理学や理論物理学や考古学などの知識だと思われる何十億年も前のことや何十万年も前のことは、そのほとんどが仮説であり、にわかには納得できないことが多いです。
そう言うと、この本を全く信用してないかのような感じを持たれるかもしれませんが、それらの仮説はそれなりの理論的な根拠のある仮説でしょうから、「そりゃそうかもしれない」という程度には理解することができます。そもそも仮説ですし当方素人なんですから、そんな理解で十分だと思います。もし、仮説とは言えもっと納得したければ、上記各種物理学や考古学の勉強をする必要があるでしょう。しかし当方そうしたくもないし、そうしたところでどのみち仮説は仮説に留まるだろうし、運よく事実だと証明できたとしてもそれだけのことなので、やはりそうするつもりはさらさらありません。
さて、もし大人の一般人がこの本を読むことの価値があると仮定して、その価値とは何かと言えば、「人間はことさら意味のある存在ではないことをしっかり認識すること」だと思います。ともすると我々人間は、今の人類がこの世に発生することを「神の配剤」だと思いがちですが、神という概念自体、人間の思考の産物と思われ、神が居ることを証明できない限りは神はとりあえず居ないとしておくべきでしょう。「神の不在証明」の前に「神の存在証明」をしてもらわなければなりません。
当方の当てずっぽうですが、この本にもそう書いてあるとおり、恐らく人間は原始的な生物から変化(進化)したものでしょう。原始的な生物は、(その作用機序は分かりませんが)恐らく無機物から変化したものと思われます。その変化を一般的には「進化」と呼びますが、呼び方はどっちでもいいと思います。ただ「変化」と言っておけば当たり障りがないでしょう。
いろいろな状況証拠らしきものから、当方そのように変化(進化)したと想像するわけですが、変化(進化)の作用機序が明らかでない限り、「生物はどこかの時点で突然発生したのかもしれない」と反論されたとき、それに反駁することができないのはそのとおりです。しかし、その場合も必ずしも神を想定する必要はなく、その突然の発生から生命の変化(進化)が始まったんだと考えて構わないでしょう。この本に書かれているとおり、宇宙で生命が生まれる環境は、ものすごく確率の低いものであり、たまたまその低い確率の出来事が地球という場所で一時的に発生し、しばらくの間その地球環境が続いているにすぎないと思われます。いわば広大な宇宙でたまたま宝くじに当たったのです。そして宝くじの当たりが何本もあるように、宇宙の多くの場所で宇宙人が発生しているでしょう。宇宙人は、その星その星に適合した形で「如何様にも存在しうる」と思われます。
宇宙人の存在に関しては、「神の存在証明」の場合とは事情が違うと思います。宇宙人は現時点で発見されてなくても居ると考えるべきではないでしょうか。何せ宇宙はものすごく広いらしいですから。まあ、もし万が一宇宙人が居なくても当方全く構いませんが、低確率とは言え途方もなく広い宇宙においては、宇宙人はけっこう沢山居ると考えるのが現実的だろうということです。地球人とは似ても似つかない宇宙人かもしれませんが、地球人と同等または同等以上に進化した生命体として存在すると思います。
生命は、特に人類は、無機物から見れば確かに恐ろしく変化(進化)したように見え、特に言葉や思考や感情は、他の存在とは全く違う特殊な何かのように見えます。しかし、よくよく考えてみると、それらは長い時間をかけて変化(進化)したものにすぎず、全ては宇宙の展開相にすぎないと思われます。ただ進化という言葉に相応しく恐ろしく複雑な変化なので、「道端の石ころ」と「人間の感情や思考」とは全くの別物に見えるというわけです。しかし、石ころだって石ころになるまでにはそれなりに複雑な過程を経ているわけで、感情や思考などは別ルートでさらに複雑化した事象(エネルギー形態)にすぎないと捉えることができるわけです。
「道端の石ころ」の出典は・・・一曲目の「一つの朝」をお聴きください。
そう考えると、「この麗しき」と形容される地球上の文化文明、人間模様は、たしかに広い宇宙では、突飛で稀有な存在かもしれませんが、ことさら特別なものではないでしょう。途方もなく広い宇宙ですから、他にも突飛で稀有な星は沢山あるでしょう。宝くじは、何枚かの回転盤を回して当たりの数字の並びを決めますが、前もって決まっているなどというイカサマがない限りは、当たった数字には当たったということ以外に特別の意味はありません。たまたま決まった数字の並びにすぎません。いかにも意味ありげに見える地球文明だって人間だって宇宙人だって、極めて稀れではあるがそれ以上に極めて広大な宇宙においては特別意味があるわけではない、たまたま適した環境で進化に進化を重ねた末の組み合わせの一つにすぎないと思います。
そして「この麗しき」地球という星だっていつかは滅びます。そうすれば、地球上の文化文明も人間模様も無くなります。アカシックレコードなんてものがない限り、地球の歴史は全く記録に残ることもないでしょう。他の宇宙人が住んでいるだろう星々もまた然りです。
こんなことを申し上げると、当方が冷たい石のような人間と思われるかもしれませんが、全くさにあらず、このブログを読めば、当方が人一倍人間臭いことを簡単に見抜かれてしまうことでしょう。ただ、その人間臭い当方の思考の一つではありますが、人間臭くない冷徹で本来的な宇宙の事情らしきことを踏まえておくのもよろしかろうということです。
まあ当方、「あるがまま、どうでもいい、よろしかろう」を標榜していますので、当方の思考もまた「どうでもいい」ということになり、全ては「どうでもいい」わけですが、まあ人間、何かを選択せざるを得ないので、「どうでもいい」と知りつつ言いたいことを言ったり、やりたいことをやったりするほかありません。そういった人間臭さも「まあ、よろしかろう」というわけです。というか、幾ら宇宙の摂理に同調しようとしたところで、物やゴキブリではない人間である以上、人間臭くならざるを得ないわけです。物は物臭く、ゴキブリはゴキブリ臭くならざるを得ないわけです。まあ、それら全てを含んで宇宙の摂理ということであり、言い換えれば「あるがまま」ということです。
なになに、「君は鬼の首でも取ったかのように自慢げに話しているようだが、多少の意見の違いこそあれ、そんなことはみんな分かった上で人生を生きているんだ。そんな当たり前のことを言われても、我々に対して何の知識も付け加えることにはならない」って? そうだったんだー。じゃあ、一応確認ということで・・・。分かりきったことを偉そうに語ってしまって御免。
なになに、「分かりきったことというよりも、むしろ奇異なことを語っているぞ」って? いろんな意見があるなあ。奇異なことを語っていたら、それも御免。謝っといて何ですが、煎じ詰めれば全ては「どうでもいい」んです。悲しいかな、そうなんです。でも、「ワハハ、オイラは陽気だ ワハハ(どら猫大将)」と生きていくよりないんです。それが、存在の、とりわけ人間の宿命なんです。
なになに、「君の場合は、表題のような名前の本を、ゆめゆめ読むべきではない」って? それはそうかも。言いえて妙かも。でも、読んでしまったのねー。オーマイマカロニ! しかし、既に述べたようにこの本を読むことは蛇足と言っているわけで、読んでも読まなくても当方の世界観はほとんど変わることはなく、あえて言えばその世界観を少し補強するのに役立つ本だったというにすぎないわけです。
なになに、「前々から書いている君の言いたいことはよくわかった。『あるがまま、どうでもいい、よろしかろう』なら、それでいいじゃないか。君は何がどう起ころうが『あるがまま、どうでもいい、よろしかろう』と言うんだろうから、それを言うことに何の意味もないじゃないか。何か新たな知識を付け加えるわけでもないし、それこそ『どうでもいい』発言ではないのか」って? それに対しては当方「御意!」と申し上げるよりほかありません。ただ、当方の性(さが)と申しますか「あるがまま、どうでもいい、よろしかろう」に何度も言及したくなることも含めて「あるがまま、どうでもいい、よろしかろう」と解釈していただければ幸いに思う次第です。
「アホかっ!」と怒らないでね。「よろしかろう、よろしかろう」と言ってね。
なになに、「もう『なになに』って言わないのか」って? はい、少なくともこの記事では、もう言いません。これで終わりです。ご笑読ありがとうございました。やけに殊勝な締めくくり。