・・・放送大学にも数学基礎論の講座があることを先日教えてくれました。その内容を読んでみると数学的予備知識を必要としないと書かれているので、もしや当方にも理解できるのではとの期待が高まっています。ただ、「ゲーデルの不完全性定理」までやることになっているので、そんな名前しか聞いた事のないような大そうな理論まで理解できるのかどうか訝しく思ってもいます。ともあれ次の下半期に受講しようかと思っていますが、はてさて、どうなりますことやら。
その後、数学基礎論にまつわる入門的な書籍などを概観してみましたが、どうも一筋縄ではいかないような世界のように思われて参りました。
放送大学の数学基礎論の当該テキストも見てみましたが、HPでは、「数学的予備知識を必要としない」と書かれているのにテキストの前書きには、「『数学的予備知識を必要としない』とはいえ、高校程度の数学的素養と多少の忍耐力を要する」というようなことが書いてありました。本の内容も少し見た限りですがピンと来ない感じでした。
他の入門的な本を読んでみても、最初のほうは理解できても、進むにつれてだんだんわけがわからなくなってきました。数学基礎論を理解しようとすれば、「記号論理学」や「集合」や「公理体系に関する数学史」などの素養(一般的な知識)が必要だと思われます。それらにある程度慣れ親しんでいないと話にスムーズについていけないし、何をやっているんだかわけがわからなくなりそうです。
当方がアホなだけかもしれませんが、普通の人間がこんなもの(数学基礎論)に首を突っ込んだならば、すぐに引き返さないと迷宮に迷い込んでしまいます。能天気な普通の人間にとって何一つ問題のない明るい高原からわざわざ暗い原生林に立ち入るようなものです。どうやら、専門家ですら簡単に幾つもの誤解が生じるほどの思考しづらい分野のようです。そんな所へ磁石も持たない素人が入り込んだ日には、立ち往生してしまうのは目に見えています。
原理への憧憬はありますが、仮にゲーデルの不完全性定理を理解したとしても、何か数学の公理体系に関する事柄に関して不完全なものがあることが証明されたということを理解したに過ぎません。それが数学の公理体系に関する歴史上とても大きな出来事だとしても、少なくとも当方の実人生からはかなり遠いところに位置するものです。
ゲーデルだって、不完全性定理に基づいて人生を過ごしていたわけではないでしょう。ゲーデルにしたって、彼の日常生活と不完全性定理は内容的に連動するものではなかったはずです。ましてや、不完全性定理は当方の日常生活には、その内容において全くと言っていいほど無関係のものでしょう。
普通の人間にとって、ユークリッドの公理系は直観的に受け入れやすい現実に即した内容のように思いますが、後に出てきたリーマンの公理系は素直には受け入れにくく多少努力を要するように思います。しかも、公理系というのは幾らでも自由に作ろうと思えば作れるということのようですから、それらは現実世界からはどんどん乖離していきます。そんなことは気にしないのが数学だと言われれば、ああそうですかということになりますが、少なくとも当方は、それではさようならということになります。
若い頃、当方は、何度か統一教会から勧誘を受けたことがあります。最後に勧誘されたのは、当方30歳くらいの時でしたが、名古屋の栄の雰囲気のいいサロン風の場所でビデオによる講義を幾つか見ましたが、アダムとイブのあたりまで遡って何やら原理的な幾つかのことを学習させられましたが、当方はそれらが原理だとは思えず、何故それが原理だと言えるのかと当方の担当の人に質問し、それ以上答えてくれる様子も無かったのでだんだん疎遠になり、熱心な学習者であるにもかかわらず統一教会に入らずにすみました(^^)。
すなわち当方原理的なものへの憧憬は常にあるのですが、考えてみればそもそも究極的な原理なんてものは一体どんなものか想像もつきません。仮に何がしかの事柄を原理と称して当方に示されたとしても、それを当方が原理と認めず、それが何故原理と言えるのかと問えば、さらに遡る必要があり、その繰り返しの先にあるものが何かは、想像すらつきません。そう考えると、原理なんてものはそもそもあるのか、という疑問に行き着きます。もっとも「てこの原理」というように卑近な事象に限定された場合は、大方科学的な事実に帰着するものについてはそれとして認めますが、統一教会のように「世界の原理」「人生の原理」ということになりますとすぐに科学的事実とは認められず、さらなる疑問が湧いてきます。統一教会が、「世界の原理」や「人生の原理」を完全なまでに科学的に示すことが出来れば、当方統一教会に入信することもやぶさかではないかもしれません。まあ、そんなことは無理だと思いますが、絶対に無いとは言い切れませんので一応付記したまでです。
こんな四方山話をしながら当方何が言いたかったかと言えば、「人生(世界)は大方見たままのものだ」ということです。数学の公理体系から世界が出来ているわけでもなく、哲学の思考体系から世界が出来ているわけでもなく、ましてや統一教会の原理から世界が出来ているわけでもありません。
例えば、哲学という観点から、ある哲学の徒が机を見ながら「私には机と呼ばれるものが確かに見えているが、ここにものがあるかどうかは何とも言えない」と言うとすれば、それはあらゆるものに疑いを持つ哲学の徒らしい言明でありますし、哲学的な思考の第一歩になるとは思いますが、大方の場合は、机と呼ぼうが何と呼ぼうが何らかのものがあることは確かであり、直観的な感覚与件を信じて生きていて問題となることはまずありません。また、荘子のように、「我々が現実と呼んでいるものは全て夢かもしれない」と言うとしても、それを反駁することはできないと思われますが、それがもし夢だとしても我々は夢を生きるしかないので、これまた特に問題ないわけです。すなわち、ひと言で言えば、もうおわかりですね、「世界はあるがまま」、これに尽きます。
どんなに私がアホで、数学基礎論の入門レベルで踵を返したとしても、私に理解できなかった(あるいは理解することを放棄した)だけのことで他の誰かは理解してたりしており、誰が理解しようがしまいが、それで何も問題ないのです。あなたはこういうかもしれません、「あなたは、自ら数学基礎論に興味があると言っておきながら、理解できそうにないと知ると、あーだこーだと言い訳をしているだけだ」と。それはそのとおりですが、もしあえて反論するとすれば、「はてさて、どうなりますことやら」と申し上げておきましたから、やめたとしても嘘をついたことにはなりません。それどころか、もし仮に「絶対に数学基礎論をやる」と言っていたとしても、後で前言を翻すことは、顰蹙を買うかもしれませんが凶悪犯罪を犯したわけでもなく、それもまた「あるがまま」ということになったでしょう。
あなたが、「それら全部ひっくるめて、つまるところ言い訳だな」と言えば、私は、「そう言われることも含めて、あるがままだな」と言うでしょう。
ゲーデルの不完全性定理が正しいならば、それはまさに正しいのだからそれでいいわけで、当方から見れば辺境の地にある数学の一定理に当方が抵触する行動など取れるはずもなく、迷惑を掛けることもないので、当方が不完全性定理の何たるかを知らなくても何の問題もないわけです。また、仮に当方が不完全性定理を理解したとしても、それだけのことと言えばそれだけのことであり、少なくとも当方にとっては、それ以上の有意義な展開はたぶん望めないと思います。
そこへいくと、エドワード・ソープの「ビート・ザ・ディーラー」なんて本の理論は、同様に正しい理論であることには変わりがありませんが、少なくとも当方にとっては、その理論を実践的に検証してみるという楽しみがあり、実際ラスベガスで検証しました。「正しいのなら検証する必要はないだろう」と言われるかもしれませんので、「実践的に」という言葉を付け加えたとは言え、検証という言葉は適当でないかもしれませんね。それなら、理論を実践する楽しみがある、と言い換えます。その実践においては、幾つかの実戦的な困難もありますが、それをクリアすれば必勝であり、それはお金が儲かるということでもあります。
「そうか、お前は、ゲーデルの不完全性定理を理解してもお金にならないが、ソープのビート・ザ・ディーラーを理解すればお金になるから、前者を理解することは簡単に断念して後者は勇んで学習するというわけだな」と言われたらどう答えようかと今思案しながら書いています。
まあ別に「そのとおり」と言ったところで、何の問題もないのですが、そう言い切ってしまうのも何なので、言い訳がましい理由付けをするとすれば、ゲーデルの不完全性定理がもう少し簡単に理解できるなら、お金が儲からなくてもやはり理解したいし、ビート・ザ・ディーラーがもっともっと難しい理論であれば、お金が儲かるとしても理解できないか理解しようとしないであろう、ということです。
「じゃあ、もしビート・ザ・ディーラーが、それほど難しくない理論でお金は儲からない理論だったならば、あなたはビート・ザ・ディーラーを学習しましたか?」と尋ねられれば、難しくない理論なので学習した可能性もあるが、やはりお金が儲からないのならば学習しなかった可能性も十分にあり得る、と答えざるを得ません。簡単に言えば、大方の人間には知的欲求と金銭的欲求の両者が共存しており、そのバランスの上に学習対象を取捨選択している、ということではないでしょうか。